学説等の勉強での位置付け

◆はじめに――学説を勉強する意味はあるのか

司法試験の勉強において、位置づけが難しいのが学説です。

たとえば、刑訴の差押えの範囲において、緊急説を勉強する意味はあるのか。もっというと、学者の書いた基本書を読む意味はあるのか。「だって答案に書けないじゃない」と。

私見を先に述べておきますと、「受験的な意味はあまりない、が、勉強すると楽しいぞ」です。

どう楽しいかをうだうだ話してもつまらないので、そういう話は一番最後にします。まずは学説の勉強方法について解説します。

◆学説の勉強方法

◎学説を具体的要件に落とし込む

学説は、論点における一説です。で、論点はどこから出てくるのかというと、要件からです(効果についての争いもあったりしますが、要は同じことです)。換言すれば、学説は、「必ず」どこかの要件に落とし込めます。

たとえば、緊急説は無令状差押えの範囲の論点ですが、逮捕に伴う捜索・差押えの条文上の要件は、 (1)「逮捕する場合」、(2)「逮捕の現場」、(3)「差押え」です。じゃあ、(3)の範囲は?という論点が出てくる訳ですが、それを根拠論とともに議論しているのが相当説と緊急説です。

で、法学における論・説というのは、何らかの利益を代表しています。体系性や法理論から考える場合でも、それは公平性、すなわち、体系性や法理論が貫徹されないと公平性が害されてしまう人の利益を代表しています。

要は、反対当事者に有利な結論を導くために学説はあるのです。法学で実際に結論に影響を及ぼすのは要件と効果だけです。趣旨は、要件・効果を通して具体化されるので、直接的には結論に影響しません。学説は必ず要件・効果に落とし込めるのです。

したがって、
1.必要なのは、要件(・効果)の徹底的な整理
2.そこから、学問的議論を要件(・効果)に落とし込む
というのが、学説の勉強における不可欠な基礎になります。これがないと抽象論としてしか捉えられません。それは学説を捉え損なっているということです。

◎学説の背景にあるもの

上記のとおり、学説というのは、通説・判例に対して、対立利益を代表した論・説なわけですが、場当たり的に反対説をとっている訳ではありません。法学の体系的な解釈に基づき、当該学説が導き出されているのです。

法学には、なぜ体系的解釈が必要なのか、もしくは、なぜ体系的解釈が生まれてくるのか、という話は、あまりにも遠大な話なので私に解説することは不可能ですが、まぁ、自由と平等を実現するために必要くらいに思っておけば良いでしょう。権力者が恣意的に法を行使すれば、不自由と不平等が生じます。それを避けるために体系性が必要になってきます。

法学というのは、論点も含めた諸々の法的議論を合理的・体系的に検討する学問です。

たとえば、高橋則夫先生の刑法の基本書を読むと、行為規範・結果規範の観点から論点を検討しています。この2点から、判例を含めた刑法の諸議論を検討しています。

ここに、二重性が生じているのは感じられるでしょうか。
(1)論点は要件から生じるんですが、
(2)論点の検討は体系的に行なわれる、
という二重性です。

この二重性を認識していないと、実際に問題を解くということと、体系的に思考するという両輪を上手く結合できません。そのため、上手く勉強することができません(これは、昔の記事で、「法学と受験テクニックのズレはどこから来るのか」というタイトルで解説したのと近い話です)。

◎要件の前提となる思考方法=事案処理方法

以上で、学説の勉強方法の話は終わりなのですが、もう少し踏み込んで、学説を勉強できなくなる原因を解消しておきたいと思います。

無限にある雑多なものを、理解し、覚えることは不可能です。法律の勉強は、無限にある雑多なものをどう整理するかに係っていると言っても過言ではありません。

で、学説は要件に落とし込めると言っても、その要件が無限に雑多にあるように感じるので、とてもじゃないけど学説を落とし込むまでには至れません。要件に落とし込めと言われても、要件が無限にあるようでは、結局学説も整理できないということです。

そこで、私は「事案処理方法」というのを提案しています。事実関係を整理して、問題点を発見するための方法です。この問題点というのは基本的に要件です。

たとえば、会社法の事案処理方法の基本は、以下のように整理できます。
(1)会社法で問題になるのは、訴訟要件、瑕疵、有効無効、責任の4つである。
(2)有効無効の検討対象は、法律行為(決議等も含む)であり、瑕疵の検討対象は、当該法律行為を実行するための(手続的)要件である。

たとえば、利益相反取引で有効無効の検討対象となるのは、当該取引です。そして、瑕疵とは、取締役会で承認をとるという手続的要件を履践しているかです。

この整理に基づけば、問題文を読むときは、法律行為のピックアップと、ルールが実行されているかを意識することになります。

そして、雑多な会社法の要件が、法律行為を有効に実行するための要件であると整理できます。この整理の筋があるだけで、会社法の知識もかなり覚えやすくなると思います。人間は指針や方向性がないと物事を認識することができませんが、逆に、それがありさえすれば、理解し、一定覚えることが可能になってくるのです。

加えて、会社法の論点の多くが、「これは瑕疵にあたるか」、「この瑕疵がある場合に法律行為は有効か無効か」のどちらかに整理できることにも気付けます。

法学は要件・効果が思考の基礎ですが、もっと根本の思考方法として「事案処理方法」とでもいうべきものが存在していると思います(民法の請求権パターンとか)。要件は無限にあり、その中でなんとなくで論点を処理してしまいます。しかし、事案処理方法は、数は少なく、そしてその処理が貫徹してます。そして、それには要件を位置付けられ、有機的な整理ができます。

以上を踏まえて、あえて図式化するなら
事案処理方法→要件・論点←体系性
という感じでしょうか(この図式化で分かりやすくなっているだろうか…)。

とかく、こういう整理をしていれば、法学知識全体について整理可能ではないでしょうか。学説を勉強することが億劫になる理由の一つに、「意義が分からない」というものがあると思いますが、それは、自分が勉強している中に位置付けられないと言うことだと思います。上記の整理で、一応の位置付けが可能になると思うのですが、いかがでしょうか。

◎勉強する範囲

以上を踏まえれば、いろんな学説の勉強のしがいが出てくると思います。

たとえば、最近、憲法の財産権で新しい議論があります。既得権侵害型と財産権内容形成型の違い、みたいなやつです。単に学ぶだけでは抽象論ですが、あれは、厳格な基準を使うか、緩い基準を使うかの議論に使えます。既得権侵害型なら侵害の態様が強いので厳格に、財産権内容形成なら形成された財産権なのでその変更は緩く判断しようみたいなことです。憲法の事案処理方法である三段階審査の正当化事由判断のための基準定立の箇所で使えるわけです。法学議論を要件まで落とし込むというのはこういうことです。

他方で、こういう議論をどこまで追求するかは悩みどころです。一つの判断基準として、「論証集に載っているか」を挙げたいと思います。論証集に載っているくらいの学説は当たり前に試験に出るので知っておいた方がいいかなと。

学説の勉強方法が分かったからと言って、無限に勉強していては時間がいくらあっても足りませんから。あくまで受験的観点を忘れてはいけないでしょう。

◆学説を勉強する意味はあるのか

◎試験的意味はない

旧司法試験から新司法試験への変更は、換言すると、「論から処理へ」だったと思っています。

旧司法試験は、一行問題とか典型だと思いますが、「議論」を書くことが求められていました。学説を書くというのは、この議論を書くことの一部だったわけです。

他方で、新司法試験は、事案の処理が求められています。結論を出すことが求められているわけですね。当然、結論に至るまでに「論じる」ことは求められているのですが、実際の法的処理にまで落とし込むことまで求められています。

その際、学説に必ず触れないとダメなわけではありません。通説・判例の理由付けを書く必要はありますが、学説にふれなくても十分に合格点は来ます。

学説を書くことが求められる場合もありますが、それは明示的に求められる場合ですし、またその学説は超ド典型学説です。

したがって、学説を一生懸命学ぶ意味というのは試験的には直接的にはないと言っても良いでしょう。

◎学説の意義――通説・判例の理解を深める――

じゃあ、学説を学ぶ意味が全くないのかというと、そうではないと思います。

学説というのは、判例通説の問題点を指摘した上での反論として出てきています。これは、法学の構造上必ず出てきます。法学がやっているのは要は利益衡量なのですが、学説は、反対当事者の利益を法学的に表現したものになります。

この議論を通じて、通説・判例の問題点がわかります。これに付随して、通説・判例は何を意識して論じられているのかということも理解できるので、通説・判例の理解が深まります。

◎学説の意義――対立利益の法理論化――

また、学説は、反対当事者の利益を主張しようとする際のよりどころにもなります。そこらへんの弁護士が理屈をこねても裁判所は見向きもしませんが、法学界隈において「説」があるなら、一応見ようかな、くらいにはなるわけです。判例にまったく合致する事例というのはなく、いつだって判例の射程を切る余地が生まれます。そのときの立論に使うわけです。

もちろん、実際に使うには工夫が必要ですし(あてはめの中に学説を参考にした要素を入れるとか)、出した上でなお見向きもされないことも多いですが、この「説」がないとそもそも土俵にすら上がれないのです。(これは何でなの問題があると思いますが、私は単純に法学が「権威」の学問だからだと思っています)。

◎学説の面白さ

最後に、学説のおもしろさについて述べますが、完全に私の感想なので(おもしろいって主観の話なんで当たり前ですね)、ご注意ください。

私は、学説のおもしろさは、自分では思いつけないような美しさや発想力にあると個人的には思っています。

たとえば、上記の高橋先生の行為規範・結果規範ですが、この議論がほぼすべての論点で貫徹しているのには美しさを感じます。雑多な議論が、この2点の観点によってほぼ検討・整理されることに驚きを覚えます。

ほかには、たとえば、緊急説は、単に人権的であることがポイントではありません。その人権を守るためにどういう理屈・論理を作れば良いかで苦心したであろう部分が面白いと感じます。「逮捕時の捜索差押えは緊急時の例外なんだから、緊急対応に限るべきだよね。だって例外的場合なんだから」という理屈、簡単には生み出せないと思うんですよ。人権→緊急時に限定って、結構距離がある。率直に「良くこんなの思いついたな」って思います。

実務に出て良く感じますが、法律論というのは自動販売機型ではありません。法にはスキマがあります。何かに当てはめて答えがそのまま出るというのはほぼありません。その際、説得力が必要です。説得力とは論理です。そして、四六時中、説得力ある法律論を考えている学者の議論というのは参考になるわけです。この考え方は説にとどまるんだな、と理解するだけで書面の方針の参考になります。

また、法学の体系性はそれ自体で意味があります。単に学問的意味があるだけではありません。法学の根本概念に自由と平等があると思いますが、体系性がなければ、法執行の予測が立たないので、自由が損なわれます。体系性がなくその場の利益衡量で法が適用されるなら、平等が損なわれます。このように、権力作用の恣意を制約する(ないしは正当性を与える)のが法学の体系性と思いますが、体系が依拠できるのは論理であるべきなわけです。

学説というのは、論理の結晶です。そして、それは自分では思いつかないようなレベルです。この天才・秀才たちが生み出した論理を楽しめる。これが学説の面白さではないかなと個人的には思っています。

まぁ、結構面白いので、せっかくなんで勉強してみるのはいかがでしょうか?くらいの感じです。勉強の仕方は上述のとおりなんで。ご参考までに。以上。

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